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NO-GOという概念。

<ハクチョウ7羽死>男子中学生2人「ゲーム感覚で殴った」 [ 05月04日 00時07分 ]

というわけで、アンサイクロペディアに書くネタがみつからないのでブロクに逃避します。ひさしぶりに真面目に書こうと思って(つか、「オンカホウよりコキントウでしょ、というツッコミがなかったのがちょっと寂しかったので)、今日は参考文献まで用意してマジメに書きます。参考文献は『バカはなおせる』久保田競/著 ISBN4-7561-4705-4 C0040です。本屋で手に取るのを思いきり躊躇しそうなタイトルですが、まあそれはおいといて。

この本の三章に、NO-GOについて書いてあります。NO-GOとは「積極的になにかをしないこと」なのですが、これじゃ意味がよくわからないかもしれないので、説明のために補足すると、本に載っていた具体例は「赤信号を見て足を止める」というものですが、個人的には「赤上げて、白上げて」みたいな旗上げゲームで「白上げない」っていう時の「上げない」が例としてわかりやすいのではないかと。
この「理性的に判断して行動を抑制する」という場合には、脳の第八野という部分が働くのだそうですが、この能力は鍛えないと育たず衰える、のだそうです。
旗上げゲームで間違えるのって、ほとんどが「上げない」なのに上げてしまう、又は「下げない」なのに下げてしまうケースで、その逆、つまり「上げる」なのに上げないとか「下げる」なのに下げないという間違いはあんまりない、というのは、やったことのある人になら実感としてわかってもらえるんじゃないかと思うのですが、それもこのNO-GOが「訓練しないと身につかない」ということのひとつの現れではないだろうか、とこれは本に書いて有ったわけじゃなくて私の勝手な憶測(でも多分外れてないと思う)。

長くなるけどちょっと引用しますね。(p84-87)
実はこの八野を使ったNO-GO行動は、赤ちゃんでもできます。
しかし、現代では、乳幼児の頃からしておくべき「積極的になにかをしない」という教育が、明らかに欠けています。
それが、ニート、引きこもり、キレやすい人などが現代社会で増えている原因のひとつではないか、とわたしは考えます。こらえしょうがなく、道ばたに座ってモノを食べ、ゴミをその場に置き去りにするような若者が増えたのを、「ゲーム脳のせい」などと言う方もいますが、そうではなく、NO-GOの訓練不足が原因だろうとわたしは思うのです。
従来の個性を尊重する教育というのは、「やりたいことを見つけて何でもやりなさい。そして、その能力を高めなさい」というものです。最近では、そうしたことが声高に叫ばれるいっぽうで、「何かをしないのは、偉い」とは子供にあまり言わなくなりました。これがよくない。
「何々をしてはいけません」と叱るのは子供のストレスになるので、脳にはあまり良くありませんが、何かをしなかったら「ほめる」のならばいいのです。「しない」ことに達成感と喜びを伴わせましょう。すると、“しない”ことができるようになります。
(中略)
従来は、「前頭前野は、計画したり行動を起こしたりする場所」という方向性で研究が進んでおり、みなそういうものだと思っていました。ですから、脳を鍛える訓練も、そういうGOの方向性のものにかたよっていたのです。
ですので、我慢したら「ほめられる」という訓練は、昔からあまり実践されていません。そういう訓練を子供時代から積んでいれば、キレやすい人も少なくなり、我慢強い人が増えてニートの人や引きこもりの人も減るのでは、と思うのですが……。
長々と引用したのは、自分が最近の犯罪や事件の(自分からはどう考えても「ありえないほど短絡的」にしか思えない)動機について考えた場合に、一番納得できる説明がコレだったから、です。

私自身、NO-GOという概念(というか「事象に付けられた名前」)をこの本で初めて知ったわけですが、おそらく多くの人が「我慢」という言葉やその意味は知っていても、「積極的になにかをしない」という事象については、それを現す言葉もないし、あまり意識にのぼったこともないと思うのです(「不作為」も「我慢」も、「なにかをしない」ことではありますが、「積極的」という意味はあまりない)。そのこと自体が、脳の持つNO-GOの機能をおろそかにし、衰えさせているのではないだろうか、と、そんなことを考えたわけです。

で、前置きがものすごく長くなりましたが、ここで冒頭のニュース。
「ゲーム感覚」っていう例のマジックワードが出てくるわけです。これで例によって「ゲームと現実の区別がつかなくなっている」とか「リセットすれば生命も元どおりになると思っている」とかいうたぐいの「最近の若者批判」が出てくるのでしょうが、いいかげんにそこばっかり槍玉にあげるのやめましょうよ。
チューリップだのボタンだのをぶち折ってる連中もそうだけど(こっちはどうももう少し年長の人間のようだ)行動を起こすにあたって抑制のタガがかなーり緩んでいるというか、自分の衝動(感情)を行動に移す前に他への影響について考えるとかそういう理性的な判断をほとんど経ていない(いたとしても行動を抑制するまでに至っていない)ということろが問題なんだと思う(ゲームではむしろそこでは理性的な判断が要求されることが多い、というのが、実はこの本の中でも指摘されていたりするのです)。

何年か前にあったディルレバンガー事件の時、犯人の親は「猫くらい」みたいなことを言ったわけだけど、どうも今回の事件も似たような匂いがプンプンするんです。単なる情動だだ漏れ状態を「個性の発露」みたいにほめられて成長してきたことが、こういう脳の機能不全を増やしているんだろうな、と。

(もの言わぬ/抵抗できない動植物を殺めるという行為についての、共感力の不足とかそういう観点はあえて排除しました)

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